3、アンフォラから樽へ
ワインの輸送は船底に砂を敷き詰め、その上にアンフォラを寝かし、搬送したと言われており、また沈没船の調査でその様子が確認されている。アンフォラの口はコルクとタールで密封されており品質の低下も防止いていた。しかしこのアンフォラは陶器製で非常に重く中のワインの重量とアンフォラはほぼ同重量であった、そのため非常に重く壊れやすく、高価なワイン(1個で奴隷1人と等価値があった)を搬送するには困難が多くあった。
・アンフォラの特徴
長所
取手が有り、運搬がしやすい
船底に積み重ねが可能で安定
口が小さいので密封しやすく変質を防げる
欠点
重い(中のワイン漁とほぼ同じ重さ
壊れやすい
木樽の特徴
軽い(アンフォラの十分の一程度の重量
壊れにくい
・樽の発明
樽の起源は諸説有るが、明確な、根拠は無く、一般説として、鉄文化を有するケルト人しか、堅い樫材を加工する技術がない、(鉄文化はBC500年頃後半には広範囲に伝搬していた)とか、ノイマーゲンの彫刻(AC300年頃)を根拠にケルト人説を主張する説など、しかしながら現存するケルト人が作った古代の木製の樽は出土していない。樽に近い桶状の木製樽はエジプトで出土している。
以下の文章は「樽オークに魅せられて」加藤定彦著 TBSブリタニカの樽の起源の要約です。
紀元前1000年前以前の古代バビロン(現在のイラク)人やエジプト人であると多くの考古学者たちは記録している。
ギリシャの詩人ホメロスによるとギリシャ人は紀元前9世紀頃にはピタイ(pitahai)と呼ばれる木製のたるを使ってワインを熟成させる技術を有していた。
ギリシアの地理学者ストラボン(BC63~AC21頃)はローマ支配下のガリア、現在のフランス、ベルギー、北イタリアでは大きな樽を作っており内部にピッチを塗る技術ももっていた。
AJ バーシン、Mゴードン、FPハンカーソン各氏らの推測では中空の丸太をくり向き蓋の部分は動物の河を革紐や蔓を縛って塞いだものであった。しかしながら丸太の樽も空の状態で長時間放置したり、日にさらした場合、割れが生じてバラバラになってしまいます、そこでバラバラになった丸太も革紐や蔓、木製のフープ(箍)で結束し直した。その後丸太が側板に改良された。その後側板を曲げ木加工し、蓋も皮から木製の鏡板に改良されたのではないかと推測されており、それがいつ今の樽の原型担ったか不明である。
と記述している。
ギリシャの地理学者ストラボンが活躍した時代にはフランスの大分部分、ベルギーなどでは葡萄が栽培されておらず、そこで作られたとされる大きな樽、もしくは桶は当時の地ビール「セルボワーズ」の発酵槽と考えられる。当時の地ビールについてはBC1世紀のティヲドロスがビールの原料に「ルピナス、ムカゴニンジン、ヘンルーダ、ベニバナ「芳香と甘みが有り、ワインと遜色ない」としている。麦ジュース様とか麦スープなどの表現が考えら れる。
当然、大麦を主体とした発酵で低アルコールの飲み物であったことは推測される。
そのため、温度や酸化の影響を受けやすく変質や腐敗しやすい物であり、長距離や長時間の運搬による振動や攪拌による酸化は致命的であり、作られたその地域で消費されたものと考える方が妥当であろう。
つまり運搬を目的とした樽ではなく、大きな桶と考える方が妥当と思われる。
・残存する木製桶・樽
現在、古代の木製桶、もしくは樽はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されているエジプト第18王朝時代に属する紀元前1490年頃のビールの発酵桶でイチジクの一種の丸太をくりぬいた物である。
もう少し時代が下った、AC1世紀、ローマ、アグリコーラ将軍がスコットランドに侵攻したスコットランド南部メルローズ近くのニューステッド(newstead)に砦を築いた場所から発掘された木製のバケツで曲げ木を輪で締めて作られている。(National Museum of Scotland 所蔵)
イギリス、ダンバートン州のローマ人の遺跡からは曲げ加工され鏡板をはめ込むアリ溝が切られたステープ14本が出土している。
・日本の桶と樽の歴史
弥生時代、杉や檜の薄板を円形や楕円形にまげ、桜、樺などの皮でとじ合わせ器とした。
樽の語源は苧(麻)をしごき、ふわふわとした繊維をいれる笥、苧笥(おけ、桶)短冊状の板を結って作る桶、樽は11世紀後半唐13世紀、日宋貿易でもたらされた物と考えられている。福岡県、博多や箱崎、太宰府の中国人居留地から結樽、結桶が発掘されている。
17世紀~20世紀前半醸造用の180石の大きな桶が出現、江戸時代は桶と樽で世の中が動き、樽回船で使われる容器もカメから結樽へと変わっていった。
木の文化63号 特集 樽のもの語り 小泉和子 参考文献
産業構造の変化と拡大に伴い、樽の方が扱い易く、カメは衝撃で破損し易いなどの欠点があった。アンフォラから樽に変化したのと酷似している。また杉材の香が酒に移り、より味がまろやかなるなど酒樽のもたらした経済効果は大きいものであった。
使い古された樽は、醤油樽に転用され樽の循環システムが構築された。シェリーやワイン樽がウィスキーの樽に転用される循環システムによく似ている。
・樽の起源は?
樽の起源は、日本醸造協会雑誌(1982)第77巻 第3号に搭載された記事からの引用でケルト説(残念ながら記事の中ではその根拠は明示されていない)の影響を受け多くの人がケルト説を押す人がいる、確かにケルト人は戦車の木製車輪に鉄の特性を利用して(鉄の熱膨張を利用する技術)、木製車輪の外側に鉄の薄板を装着する技術を有していた。そのため、BC200年代にはギリシャの都市国家を7ヶ月もの間、占領するなど強力な軍事力を有していたが、ケルト遺跡から木製の樽にフープ加工を施した樽の出土は皆無である。
現在、唯一アリ溝加工とフープを有する出土物は1世紀初頭のイングランドのローマの遺跡から出土したものだけである。
フランス、アビニョンのラビデール美術館が所有するレリーフ「ガリアの8月の出来事」と言うタイトルのレリーフ(紀元前63年から紀元後14年頃の作品)に2つの樽が描かれているが、当時、この地域はすでにローマの支配下であり、ローマ文化が浸透し、ガリア文化の地ビールの発酵桶を改良し樽の形状とし、ワインの輸送容器として、活用したと考えられる。
ガリア(ケルト)では、古代ビール(セルボワーズ)が主な酒で長時間、長期間の運搬は腐敗や変質を考えると、レリーフに描かれた容器の中身はワインであり、当時のワインの産地は、地中海沿岸や、ギリシャであることから、樽はガリアで開発されたと考えられない。
桶、樽の技術はヨーロッパ、エジプト、中国、日本など各地で社会文化に適合し、自然発生的に様々な地域で独自の材質、形状で発展し、輸送容器として活用されてきたことは事実である。
樽がどこで発明されたかは考古学者に任せることとしましょう。
・樽がもたらした素晴らしい効果
アメリカに輸出された、無色透明のブランデーがアメリカで荷下ろしを忘れヨーロッパに戻り樽の中身が薄茶色に変色し香りが素晴らしく良いものになった。
樽で熟成されたワインがバニラ香のするワインとなり、ふくよかな味となった
灘の日本酒を樽廻船で江戸に輸送したら、杉の香りが付き人気となった。
そのほかに樽は船積み用の容器として長い間使われ、近年コンテナ船が開発されるまで全世界で船積み容器や倉庫の収納容器として何世紀に渡り使用されてきた など樽のもたらした効果は目を見張るべきものがある。
Vol.3へ続く
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